2009年7月2日木曜日

《風の旅籠で・・・》 その28

もうひとつの存在?!
私の心の中では天使のつぶやきも、悪魔のささやきも聞こえてきます。天使と悪魔を天地とすれば、その間に間にはそれこそ「さまざまな声」で満ち溢れています。その数・・・1千、1万、いやいや10万をはるかに越える声の数々。あれっ?ちょっと、待ってくださいよ。一体、誰がその声、その内容、その数値を話題にしているのでしょうか?つぶやく者とその声を聞く存在。一体、誰が聞いているのでしょうか?!私の中の和(やわらぎ)を求めて五島列島に暮らし・・・和・民・旅・行・・・しております。(第4週 結 「行」 記憶再生の旅路 7編 ・・・完・・・)

2009年6月26日金曜日

《風の旅籠で・・・》 その27

内なる平和から・・・
日本でも世界でも、歴史には善悪、真偽、美醜、裏表の物語が編集されている。どの歴史にも「支配者階級の作為」が含まれており、為政者は臭い処にフタをしたがる。人間一人ひとりにおいても同じだ。誰でも心の内に「光」と「闇」を抱いている。人は上辺で「天使の顔」をつくり、内面に「悪魔の爪」を隠す。この自己矛盾を認め、留意し、解消することなくして、私の内なる平和はやって来ることはない。

2009年6月23日火曜日

《風の旅籠で・・・》 その26

以和為貴。無忤為宗。
「和(やわらぎ)をもって貴しとし。忤(さから)うこと無きを宗と為す。」※これは聖徳太子十七条憲法の冒頭にある言葉。私は今まで「和」を(わ)と読むことはあっても(やわらぎ)と読んだことはなかった。や・わ・ら・ぎ・・・俄然、日本人の遺伝子と共振・共鳴するような音の響きに感じられる。そして、この言葉(ことのは)は日本人の記憶に刻まれている。「自分と戦わない、自分の価値を殺さない」・・・そんな生き方を再開します。※引用⇒http://www.geocities.jp/rikwhi/riko/syotoku17.html

《風の旅籠で・・・》 その25

ジャパネスク
山の神、海の神、風神・雷神などの神々に加え、おかみさん(奥様)も居る国・・・日本・・・。はるか昔、卑弥呼や台与(トヨ)が国を統治してきた時代から、女性(女性エネルギー)を尊び、女性の感性を社会システムに取り入れようとすることに熱心なお国柄です。これは世界的にも稀に見る事実です。また、万物自然に「見えざる何か」を感じ、「人為を超えた何か」をいろいろな言葉で表現し、いろいろな形に顕現しようとしてきました。女性や自然を敵視せず、我が友、我が師として共生しようとする日本の心。

《風の旅籠で・・・》 その24

Simple is Beautiful.
・・・といえば日本の国旗「日の丸」です。簡潔で美しいデザインの旗。日の丸は「太陽」、白地は真夏の入道雲の「白」でしょうか?晴れた日にはいつも輝かしい威光を放ち、雨の日でも見えざる雲のはるか高い処で確実に存在している。地球創生以来、ズーッと寄り添ってくれている「この存在」に人は人知を超えたものを感じてきたと同時に、限りない感謝の念を抱いてきました。有り難し。

2009年6月22日月曜日

《風の旅籠で・・・》 その23

願えば叶う
この言葉が本当なら、とっくの昔に「この世は平和になっている」ハズ・・・だけど、人は毎日毎時間、戦争・飢餓・伝染病・殺害・自殺など「天命ではない死因」でこの世から消えている。「願う」と「叶う」との間に大きなギャップがあり、この溝を埋め尽くす「何か」が必要不可欠であることは明らか。そして、その鍵は何処に?・・・五島で意識の冒険を始めた原点は此処にあります。

《風の旅籠で・・・》 その22

五無主義
無気力・無関心・無感動・・・これを「三無主義」と呼んだのは1970年代のことだ。あれから40年経った今の「現代人気質」には、さらに無責任と無関係が加わり「五無主義」へと深刻化したかもしれない。そんな評論は糞食らえ!私は五島で「五無主義」を快方へと向かわせていきます。

2009年6月9日火曜日

《風の旅籠で・・・》 その21

記憶の里・五島
不安や恐怖の伝染力は強い。それは凄まじい勢いで人の心身を蝕みます。これに有効なワクチンは何か?徐福が「不老長寿の薬草」を探しに旅に出たように、私たちも「何かを」求めて旅発ちます。生成流転の変化の潮の中にも「千載不易なるもの」を発見するために・・・。それは「自分自身の中に埋もれた意識の記憶」・・・それが記憶の里・五島列島からの贈りもの。(第3週 転 「旅」 記憶(不易)の疼き7編・・・完・・・)

《風の旅籠で・・・》 その20

日本をではなく・・・
「自分自身」を今一度洗濯いたしたく申し候(坂本竜馬)・・・と呟きたくなるような半泊の海。私は透き通った穏やかな海の前に立ち、「和」を為す遺伝子が目覚めたようです。まずは、自分自身との和合。上辺の自分と本当の自分との融合を目指します。何故、そんな思いに至ったか・・・って?遥かなる昔、私が今の私ではなかった時、この浜辺に連なる田ノ浦瀬戸で風待ちする遣唐使船での思い出かもしれません。

2009年6月2日火曜日

《風の旅籠で・・・》 その19

三井楽の沖に立ちて
日本の最西端の島・福江島に三井楽という地があり、遣唐使の最終停泊地としての史実あり。ここから海を臨み、中国大陸や朝鮮半島の存在を想う。この風景を見て、China&Korea&Japanの絆や繋がりを感じない人はいない。遥か遠い昔に大陸から来た人も、半島を渡った人も、そしてこの島で交流を深めて人々もこの沖に立ち、何か「赤い糸」を見ていたハズ。今、この岬に立つ自分は、21世紀に生きる今の存在としての「自分」だけではないかもしれない。記憶の蘇り?!

《風の旅籠で・・・》 その18

記憶の疼き
学問とは忘却の彼方に見失った「生来の意志」を全て思い出すことなのかも知れません。好奇心、探究心、冒険心が私の身体の中で息づく限り、私の学習意欲や体験への欲求は止まることを知りません。その欲求はテスト、宿題、成績、そして学歴といったような社会的評価(外的なもの)から生まれるものでは全くなく、がぜん「内発的なもの」からの誘いであり、私の潜在意識の奥底から起こる「記憶の疼き」のようなものです。記憶の里・五島・・・とは何か?のヒントになれば幸いです。

2009年5月27日水曜日

《風の旅籠で・・・》 その17

関係性
「風が吹けば桶屋が儲かる」と聞いて、まともに風と桶やが・・・どうして???と疑う人はいないと思いますが、解説※を聞こうが聞くまいが、因果は巡るで「見えない関係性」があるのだ・・・と感じる人は多いはず。こうして私が島暮らしを始めていることにもきっと「何らかの関係性」があるのです。「五島列島・福江島・半泊」との見えない糸を辿り始めた今日この頃です。

※引用開始 http://www.coara.or.jp/~pulara/kotof.htm  風が吹くと砂が飛ぶ、砂が飛ぶと砂粒が目に入る。目に入って失明する人が出てくる。目が見えなくなると、その分楽しみが減る。三味線を弾いて小唄、端唄、都都逸など歌うようになる。そうすると三味線にはネコの皮を使う訳だから、ネコがどんどん捕まえられて減ってしまう。するとネズミがはびこり片っ端から桶をかじりまわる。